v10.0
- ID:
- 32745
- 年度:
- 2015
- 月日:
- 0323
- 見出し:
- 小社会
- 新聞名:
- 高知新聞
- 元URL:
- http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=335210&nwIW=1&nwVt=knd
- 写真・動画など:
- なし
- 記事内容
- やっと咲いた。きのうに続いて桜の話を書きたい。高知城のソメイヨシノの開花宣言はことし、全国トップの座を鹿児島などに譲った。一日も早くと開花を待ちわびる気持ちも分かるが、人の心模様はそう一色ではない。
歌人の水原紫苑(しおん)さんは昨年出版の「桜は本当に美しいのか」で、日本人の共同幻想としての桜への思い入れを世に問うた。記紀、王朝和歌から近現代の短歌まで、桜の歌を分析。桜が明確に美の規範となったのは「古今集」からと説く。
散る桜の美は先の戦争で軍国主義に利用された。東日本大震災のあと、何事もなかったかのように平然と咲く桜を見て思った。「あえかなはなびらに、堪え得ぬほどの重荷を負わせたのは、私たちの罪ではないのか」と。
「我(われ)に触るるな」。あの春に見た桜は、そう言っていたのかもしれないという。桜は人間の思いなどとは関わりなく、植物の生を全うしているだけなのだろう。
随筆家の岡部伊都子さんも同じ視点から「桜の木は、知らないことだ」と書いた。戦争で敬愛していた兄や婚約者を失った。だからこそ桜は「人が自分に桜という名をつけたこと」も、この国の人びとが、「ただならぬ愛情の念を抱いて桜を視(み)ること」も「知らない」ことだという。
お二人とも桜をめでる心情を否定しているわけではない。ただこうした見方はあっていい。早く咲こうが、遅れて咲こうが桜は知らないことだから。
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