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ID :  1785
公開日 :  2006年  10月 5日
タイトル
[生誕100年、新宿御苑のいま、むかし
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新聞名
旅ゅーん!
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元URL.
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/sketch/20061004tb02.htm?from=os2
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元urltop:
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写真:
 
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広~い芝生に天をつく巨木。彼方には摩天楼。日本のセントラル・パーク、新宿御苑は都会人が深呼吸するにはもってこいの舞台ですが、実は歴史を映した空間でもあるんです  東京・新宿区の商業地域、せまいせまい集合住宅のわが家から他に移ろうと何回考えたことか。でも、この便利さが捨てられない。そして家人と相談のあげく、毎回、出てくる結論が「やっぱりここでいいじゃん、新宿御苑 という庭もあることだし」。そうです。58ヘクタール、山手線内側緑地で随一の広さ。入場料200円で手入れの行き届いた芝生に巨木。四季折々の花。大勢の庭師付き。固定資産税なし。自称「ウチの庭」の魅力は絶大な んです  なじみの公園がほぼ現在の形となり、「新宿御苑」という名になってから、今年で100年と聞き、あらためて秋の一日、探索に出かけてみました。四谷寄りの新宿通り大木戸門からはいると、周囲より空気がひんやりとし ているのがわかります。どこからともなくキンモクセイが香り、通路の両側から茂るイチョウやシイの枝からは道をまたぐように大きくきれいなクモの巣。真ん中には豪華な金色と黒のジョロウグモが陣取って、都心という のに「別天地に入ったぞ」と体で感じますね  もともとは江戸開府の際、内藤氏が家康より賜り、下屋敷を建てた跡地です。家康が「一日で回れるだけの土地をやるぞよ」と言ったので内藤清成は四谷~千駄ヶ谷あたりを大急ぎで騎馬で走った。で、広大な土地を 手に入れたのだが、馬は息絶えた、という話が伝わっていて、近くにはその馬の鎮魂碑もあります。私、この話を知ったとき、「内藤、な~んて強欲なヤツ」と思いましたが、誰かから同じ事を言われたら同じ事をしそうでこ わい  明治時代になって、大蔵省が買い上げ、農業試験場的な施設に。やがて皇族が召し上がる農産物を供給する場となり、ものの本によると明治天皇がお好きだったバナナなんかを温室で作っていたんですって。フラン スの造園家、アンリ・マルチネに依頼してフランス式、イギリス式、そして日本式庭園としてほぼ現在の姿に生まれ変わり、正式に「新宿御苑」と呼ばれるようになったのが1906年というわけです。いわば「皇族のお庭」 だったのが国民の公園となったのは戦後1945年。最初の10か月で100万人以上が訪れたというから、当時の人がいかに「平和な緑」に飢えていたかよくわかります  今回、ちょっと曇り気味の10月の日曜日は、広い芝生に点々とカップルや家族連れが散らばる程度で、まあ、ほどよい人出です。しかし、その様態は「かつて天皇陛下や宮様方がゴルフに興じられた」というハイソな雰 囲気とはちと違う。芝生に寝ぞべるカップルは、膝枕型多し。最近は女性の膝に男性の頭、という古典的パターンにとどまりません。なぜか、男性の膝に女性の頭、というのも目につきます。いいことです  プラタナスの並木が続くフランス式庭園は、ちょっと映画「第三の男」の、わけあり男女が無言ですれちがうラストシーンを思わせるシュールなたたずまいなのですが、らら、ベンチに座ったカップルが、コンビニで買っ たとおぼしきカップ麺をかき込んでいました。いいのか。まあ、高貴な方だけが独占するよりはきっといいことなんでしょう。ゴミはちゃんと持ち帰りなさいね  これだけ広いといろんな生き物に関する歴史もあります。かつてここで所長をしていた知人に聞くと、「1980年代にはリスを放したらしいけれど、ネコにやられたのか、結局絶えちゃったみたいだねえ」。同じ頃、オオコ ノハズク(ミミズクの一種)も越冬していて、鳥好きの間では話題だったんですって。しばらくアオバズクも住んでいたはずが、最近は姿を見かけていないとのこと。寂しいことです。でも、今でもオシドリが越冬していますし 、アオダイショウも健在とか。がんばってほしいな  新宿門のわき、インフォメーションセンターでは、小さな展覧会をしていました。東京農大の成人学校卒業生で組織する御苑園芸作業ボランティア「グリーンアカデミークラブ」の絵画や写真作品です。案内によれば、 毎週休園日の月曜日に樹木や温室、バラや菊などの手入れを手伝っているそうで、まあ、大変だけれど楽しそう。「60代から80代の人もいるんですよ」という受付の方の話に、「おお、わが家の庭にご苦労様」という気分 になりました。いや、私自身、定年退職の暁にはここで汗をかきたい気分です。