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公開日 : 
タイトル
[何百年もの間 思いを込めて 拝まれ続ける仏様
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新聞名
読売新聞
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元URL.
http://osaka.yomiuri.co.jp/shitei/te60418a.htm
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元urltop:
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写真:
 
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 春雨がトタン屋根をたたく。3月16日、竹林と田園に囲まれた京都・洛西の松本工房。薄暗く、ひんやりとした作業場の真ん中で、仏像彩色師の長谷川智彩(37)は、不動明王像と対峙(たいじ)していた。
 細筆に墨を含ませ、カッと見開いた目に命を吹き込む。眼の位置、大きさ、左右のバランス。そのすべてが像の表情を決定づける「開眼」の瞬間は、何度、経験しても、緊張で息がつまりそうになるという。
 まして自らの師匠で、鎌倉彫刻を完成させた運慶、快慶の流れをくむ「慶派」の大仏師、松本明慶(60)が彫った像。しかも最高級材の白檀(びゃくだん)で総高約6メートル。松本も「これほどの素材と大きさの仏像を手が けることはもうないのでは」と話す大作とあって、あたりを包む空気は、日ごろにも倍して張りつめていた。
 長谷川が眼を描き終えると、少し間を置き、まばたきもせずに筆先を見つめていた松本から、つぶやくように声がかかった。
 「ええんやないか」  空気が緩み、白檀の甘い香りが、ほんのりと広がった。引き結んでいた長谷川の口元が、ほころんだ。
約20年前、長谷川は美術工芸高校の卒業を控え、進路に悩んでいた。高2の夏に松本工房でアルバイトをし、仏師の仕事のうち彩色の作業に魅せられて「居場所はここだ」と考えていたが、両親が「普通の就職」を望ん だためだ。
 背中を押したのは松本の一言だった。「一流の上には超一流がある。一番を目指すんやなかったら来んでええ」。迷いが消えた。「私は超一流になりたいんです」と即答した。
 彩色は像を荘厳に仕上げる反面、一つ間違えれば、台無しにもしかねない。金箔(きんぱく)を毛髪より細く切って張りつける截金(きりがね)技法など、根気と集中が欠かせない作業も多い。
 入門当初、どう色を施すべきか、仏像を前にして考えがまとまらず、手を止めて迷っていた。すると、すぐさま松本の怒声が飛んだ。「塗りもせずに悩むぐらいなら帰りなさい。何もせん人には教えようもない」。涙をこら え、筆を執った。
 「今の自分を乗り越えたい」と、元日以外は1日に15時間以上、働き続けた。やがて自宅から工房に通う往復時間さえ惜しくなった。
 相談すると、松本から「独立」を勧められた。ただ、条件があった。「弟子をとれ。1人やと自分に甘うなるけど、弟子がおると、さぼれんようになる」というのだった。
 25歳で、京都市左京区に彩色専門の工房「智彩堂」を構えた。
 今は女性5人を弟子に抱え、松本工房や仏具店の注文に応じて、仏像に色や模様を施している。
 「私たちがつくるのは、何百年もの間、人々に様々な思いを込めて拝まれ続ける仏様」。長谷川はそう弟子たちに説く。
 どうすれば、そんな人々の思いにこたえられるか。仏像に向き合い、自身を見つめながらの修業が続く。
 樹齢200年のスギの倒木が昨年1月、新潟県中越地震で前年の秋に被災した山古志村(現・長岡市)から、松本工房に届いた。松本が村の惨状を知り、取り寄せた。
 ほほ笑みながら合掌する童地蔵を9体、彫り上げ、6体を同村、あとの3体を阪神大震災の被災地の神戸市長田区などに贈った。
 村長だった長島忠美(55)(現・衆院議員)は工房を訪ね、完成したばかりの地蔵を見て、思わず抱きついた。優しさに満ちた表情に接し、涙を抑え切れなくなった。
 いま、村民たちが暮らす仮設住宅のそばの集会場に安置された地蔵のもとには、手を合わせに訪れる被災者が絶えないという。
 「松本先生は『仏像を彫るのではなく、木の中から命を取り出す』と言われた。災害復旧には住民の心をくみ上げることが大事だと、改めて教えられた」と、長島は話す。
 松本の原点も「命」を巡る出来事だった。17歳の時、4歳下の弟が病気で手術中に死亡。手術後、執刀医が廊下で談笑する姿を見た。「仏というのがほんまにあるなら見てみたい」と憑(つ)かれたように仏像を彫り、瞬 く間に約300体ができた。
 それを知った高校の美術教諭から人づてに紹介され、慶派最後の大仏師と言われた野崎宗慶(1881~1965)の唯一の弟子になった。
 だが、当時すでに82歳だった野崎は、その2年後に病没。松本はわずか20歳で「独立」した。
 短い師弟関係の中で、老師から、よく「ちょっと天狗(てんぐ)になれ」と言われた。“大天狗”はいけないが、自信を持たないと仏は彫れないという。
 「大仏師はオーケストラの指揮者のようなもの」とも言われた。松本はいま40人の弟子を抱え、それぞれの木くずから日々の好不調を読みとることができるようになった。
 「先生はいろんな口伝を残してくれはった。命と引き換えに技と心を全部……」と、松本はしのぶ。
 松本と長谷川の手で開眼した不動明王像は、広島・宮島の古刹(こさつ)「大願寺」が、明治初期の神仏分離で厳島神社と分かれた際になくなった護摩堂の再建に伴い、製作を依頼した。
 4月2日、同寺でその落慶法要が営まれた。「このお不動さまが、これから多くの人を見守って下さる。平成の文化と技術を後世に伝えるお姿。歴史を重ねれば、国宝になっても不思議ではない」と、住職の平山真明(50 )は像を見上げ、合掌した。
 「何百年も受け継がれてきた技術の水準を私の代で落とすことはできない。むしろ、少しでも上積みして次の代に引き継がなければ」。師匠の代表作ともなる像の仕上げを任され、果たした長谷川はいま“伝統”をつむ ぐ重みをかみしめている。
仏像彫刻の歴史 6世紀の仏教伝来から  日本の仏像彫刻の歴史は6世紀の仏教伝来とともに始まる。
 その当初の「仏師」としては、法隆寺の釈迦三尊像や飛鳥大仏を手がけた止利仏師が、よく知られている。
 頭部と胴体を1本の木で造る「一木造り」の工法を平安中期以降に「寄せ木造り」に進化させたのが、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像で名高い定朝。複数の仏師が、仏像の各部を別々に造り、最後に寄せ合わせて1体にす る工法で、その後の造仏の模範となった。
 定朝の時代から約150年後、仏師の系譜は院派、円派、慶派と分岐して受け継がれ、鎌倉前期に運慶が登場した。慶派は東大寺南大門の金剛力士像などで知られる通り、写実的で剛健な鎌倉様式を樹立、現代に至る まで仏像彫刻の技術面で大切な基礎となっている。
 仏師には、仏画を描く「絵仏師」、彫刻をする「木仏師」があり、仏像彩色は絵仏師の仕事だ。
手間とコストかかる仏師育成  仏師にとっての最大の受難は、明治初期の廃仏毀釈(きしゃく)運動だ。神仏分離令を機に全国的に寺院や仏像が破壊され、仏像を尊ぶことも禁じられて、仏師の仕事が激減したという。
 それから百数十年。仏師たちは新たな危機に直面している。機械で彫った安価な外国製の仏像を日本製のように陳列する仏具店が後を絶たないのだという。松本明慶は「名仏師を育てるには、それなりの手間とコスト がかかる。今の風潮は第二の明慶を非常に育てにくい環境だ」と嘆く。
 京都仏像彫刻家協会には現在、正会員9人、準会員30人がいる。