ID : 785
公開日 : 2006年 4月14日
タイトル
植樹続け10年 足尾に育つ「共生」
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新聞名
東京新聞
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元URL.
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060414/mng_____thatu___000.shtml
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元urltop:
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写真:
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日本の公害の原点、「足尾鉱毒事件」で知られる栃木・足尾。煙害で荒涼とした岩肌をさらけだした山々に緑を取り戻そうと、渡良瀬川流域の住民らが結成した「足尾に緑を育てる会」(500人)が5月に設立1
0周年の節目を迎える。植樹に参加するボランティアも年を追うごとに増え、これまでに植えた苗木は2万6200本。「100万本植えよう」をスローガンに、会はこれからも息の長い活動を続けていく。
「木の生命力は強いし、お互いに助け合って育つんだよね」-。「育てる会」設立メンバーの作家・立松和平さん(58)は、緑が戻りつつあるハゲ山の写真を見やりながら、いとおしむような口調で語った。足尾銅山の飯
場頭だった母方の曾祖父の生涯と、日本近代化の牽引(けんいん)車となった足尾を描いた小説「恩寵の谷」(一九九六-九七年に本紙連載)を著した立松さんにとって、足尾は創作エネルギーの原点ともなった地である
。
鉱毒被害を受けた渡良瀬川下流の住民と銅山で栄えた足尾の人々。「育てる会」は、一世紀に及ぶ被害者と加害者の関係を乗り越え、足尾の文化や歴史を研究する五団体が発足させた。足尾に緑を取り戻すことを流
域再生の切り札とし、足尾を通じて自然と人間の共生を考えたいとの共通する思いが、上下流の“溝”を埋めた。
九六年五月。会主催の初植樹会が、足尾ダム下流の山腹にある大畑沢緑地ゾーンで行われた。お金も苗もない、ないないづくしでの呼びかけだったが、百六十人が駆けつけた。「せいぜい二、三十人かなと思っていた
んでびっくりしましたよ。熱い思いが伝わり、随分勇気づけられました」と立松さんは振り返る。翌年から四月の恒例となり、昨年は過去最多の千百人が植樹に参加した。
立松さんは「リピーターが多いんですよ。みんな自分の心にも一本ずつ木を植えているんだよね。僕にとっては毎年足尾に植樹に行くことが春のこと触れ」と言う。
夏には草刈り、秋には観察が行われる。体験植樹で訪れる小中学校なども増え、昨年一年間で百十団体に上った。
足尾の活動は、国有林での「古事の森」づくり事業にも発展した。神社仏閣などの修復は樹齢数百年のヒノキが必要なのに、森がどんどん破壊されていく現状に危機感を抱いた立松さんが、林野庁に掛け合い実現した。
二〇〇二年の鞍馬山(京都)を皮切りに筑波山、裏木曽など全国七カ所でボランティアによる植林が行われている。
立松さんは「日本文化の基本は森。森が崩壊していい文化が育つはずがない。足尾での活動があったからこそ生まれた発想です」と明かす。
一八九七(明治三十)年、農商務省が銅製錬の煙害などで生まれた足尾のハゲ山(当時三千五百ヘクタール)で「官林復旧事業」を始めて百年余。今も、緑はその半分ほどしかよみがえっていない。「育てる会」は、「百
万本の木を植えよう」をスローガンに掲げる。毎年五千本植えても二百年。「僕らの生きている時代には結果を出せない、ほとんど永遠の作業」と話す立松さんは、「小さな力だが、貧者の一灯の精神でやり続け、次の世
代につなげることが大切。環境問題はすべて、貧者の一灯であることを足尾から学びました」と続けた。
二〇〇二年五月にNPO法人として“第二の人生”を歩み始めた「育てる会」。会長の神山英昭さん(68)も「十年は単なる通過点。これからも、今できることをコツコツと続けていくだけです」と気負いがない。今月一日、
足尾環境学習センターの管理運営を行政から委託された。神山さんは「足尾は環境問題を考える最適の地。足尾を見ずして環境を語るなかれ、です。ぜひ足尾に足を運んでほしい」と語った。
一九七三年の閉山まで銅山興亡の舞台となった栃木県足尾町は先月二十日、合併に伴い日光市足尾町となり、自治体としての「足尾」の歴史にピリオドが打たれた。七月には、鉱毒の直撃を受けた谷中村が強制廃村と
なって百年になる。田中正造がまいた「源流域の保全、治山治水」の種は、長い歳月が経過した今、「育てる会」の活動として着実に花を咲かせている。
ことしの植樹は二十三日に実施。問い合わせは「育てる会」=電0288(93)2180=へ。
足尾銅山 17世紀初頭に発見され、江戸幕府直轄で繁栄を誇ったが、幕末期に衰退。1876年、古河市兵衛が銅山の権利を得たのを機に製錬技術の近代化が進み、大銅山に成長した。銅山から流れ込む鉱毒が渡良
瀬川下流域を汚染、農漁業に被害を与えたため、栃木県選出の衆院議員田中正造が帝国議会で追及、明治天皇への直訴事件(1901年)も起こして社会問題となった。政府は、鉱毒を沈殿させる遊水地とするため、06
年谷中村の強制廃村に踏み切り、買収に応じない19戸は翌年取り壊された。