ID : 15365
公開日 : 2010年 3月14日
タイトル
「奥多摩の主」中川金治翁
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新聞名
岐阜新聞
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元URL.
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2010/gifu_kairyu/4/gifu_kairyu4_1.shtml
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元urltop:
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写真:
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水源林救った飛騨人魂
東京都水源林を守り育てた飛騨人を地元民らが「奥多摩の主」として祭った中川神社=山梨県丹波山村、竿裏峠 山梨県東部に東京都奥多摩から連なる約2万2千ヘクタールに及ぶ広大な都水道水源林がある。江戸幕府が17世紀に開削した玉川上水源流で、明治維新後の乱伐による荒廃を憂いて1901(明治34)年に東京府(当時)が奥多摩、丹波山、小菅の御料林を譲り受けて設置した。
その翌年、府林業監守として入山し、緑滴る森に復活させたのは飛騨市宮川町出身の中川金治翁(1874~1949年)。山梨県丹波山村の村民は翁を「奥多摩の主」とあがめ、富士山を望む竿裏(さをら)峠に山の守り神として中川神社を建立(1935年)し、多摩川の大切さと翁の偉業を後世まで語り伝えている。
東京五輪の64年まで都民の8割、その後も425万人の上水と流域の平穏を担う源流の森を育てた翁の足跡を追うと、いかにも木の国・山の国の飛騨が生んだ偉人との感慨が深まった。
飛越国境の宮川町はJR高山線を寸断した2004(平成16)年の台風23号災害が記憶に新しいが、古来、厳しい自然と闘いながら生き抜いてきた土地柄。中川家は江戸後期には山林経営のほかに木地物を手広く商った素封家。郷土が災害に遭うたびに私財を投じ、復興に尽くしてきた。翁は27歳で意を決して妻子を残して上京、東京農科大学林業科で学び、本多静六教授に推されて都水源林経営に精魂を傾けた。峠の神社に生き神として祭られたのは定年を迎えた35年だが、その後も戦争がひどくなるまで嘱託として源流の森を守り続けた。
7年前、多摩川の上下流有志で中川神社の3代目のほこらを石造で再建。この時、代表を務めた伊藤巌さん(78)ら翁を知る人に会いに先月、丹波山村を訪ねた。「村の子に本を土産にくれ、私も『のらくろ』をもらった」と伊藤さん。「猟師の祖父は神社創建世話人の一人。私もあめをもらった」と木下勲さん(78)。「ひげ面に軍服、乗馬ズボンに登山靴姿で、リュックから絵本をもらった」と木下増平さん(85)。
人が台無しにした森を、人がよみがえらせた。戦中戦後も乱伐の危機に遭いながら、その時々の人の英知で守られた「百年の森」。森の危機といわれる今も、志あれば道は開ける―。そんな思いで残雪の竿裏峠に登り、翁の遺徳をしのんだ。