ID : 11399
公開日 : 2009年 4月18日
タイトル
山守が残してくれた春 週のはじめに考える
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新聞名
中日新聞
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元URL.
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2009041902000054.html
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元urltop:
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写真:
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しず心なく花は散り、もう新緑の季節です。先人が守り、残してくれたこの豊かな風景を、どのように未来へ伝えていけばいいのでしょうか。
裏木曽の春は、にぎやかです。
木曽谷の西、平成の合併で岐阜県中津川市に編入された旧加子母村の森林は、古くから良質な木材を産出し、江戸時代には、飛び地として尾張藩の支配下にありました。
名古屋城創建時の造営材を賄ったのも、幕末に焼失した江戸城西の丸の再建に、ヒノキの良材八万本を献納したのもこの森です。
“宝の山”を次世代へ
式年遷宮のご用材を切り出す旧加子母村「神宮備林」の周りでは、山桜がようやく散り始め、ヤマブキやコブシの花が咲き、樹齢千年を超える大ヒノキは凜(りん)として、ナラやクリ、ケヤキなどの広葉樹が一斉に萌葱(
もえぎ)色の若葉を付け始めたところです。
「一年のうちで一番、心が躍る季節でしょうか」
中津川市役所林業振興課の内木哲朗さん(50)は、いとおしげに出之小路山の森を見渡します。
裏木曽には、乱伐や盗伐などから“宝の山”を守るため「山守」という独特の制度がありました。
十七世紀後半、加子母の美林は度重なる乱伐で枯渇しかかり、「尽山」と言われるほどに荒れ果てました。尾張藩は森林資源の保護と管理のために地元の庄屋を山守に任命し、士分に取り立てました。内木さんは、山
守家の二十代目に当たります。
内木家が代々書き継いできた「山守文書」は、その時代の森林管理の模様を今に伝えています。
中でも「六十六年一周之仕法」は特に秀逸です。
資源量から周期を割り出し、六十六年で裏木曽の山を一巡するよう計画的に伐採します。森林を荒廃させずに村々の暮らしを潤すこともできるという、持続可能な開発の先駆けです。
百年先に思いを寄せて
百年生、二百年生の巨木は「有事」に備えて残します。植林には多くの人手がかかるので、「天然更新」にゆだねます。自然な繁殖を待つだけです。高値で売れるスギやヒノキに偏りすぎることを避け、広葉樹林も保全し
ます。落ち葉がないと土がやせ、水質にも影響が出るからです。
スギとヒノキ以外の樹木も、もちろん活用しています。柱にはマツ、床の間には黒柿、土台には腐りにくいクリ材と、築百五十年の内木家の母屋には、約二十種類の木材が使われているそうです。
代々の山守は、裏木曽の森を見回るたびに、巨木の周囲を広葉樹の若芽が取り囲む百年先、二百年先の風景を、思い浮かべていたのでしょうか。
「裏木曽に暮らす人々は、みんな“山守”なんですよ」
内木さんは、控えめにそう言います。
だとすれば、森の恵みをさまざまに受けて栄える都会の住民も、“山守”でなければなりません。
都会の変化は目まぐるしくて、百年先、二百年先を見通すゆとりを持てません。米国流の金融資本主義とかで、目先の利益最優先、株価や為替相場の上げ下げに一喜一憂の毎日です。
政治家はとりあえず次の選挙に勝つために、乏しい予算のばらまき合いに熱を上げ、借金の“泡”を膨らまし続けています。温暖化対策会議では、十年先の目標さえも決まりません。
こんな時こそ、山守の“まなざし”が必要です。
石川県能美市の岡元豊さん(39)はこの春、中日農業賞の農林水産大臣賞に選ばれました。
岡元さんは、二十ヘクタールの水田を経営する一方で、「加賀丸いも」と呼ばれる伝統野菜の栽培技術を守っています。
ヤマイモの仲間の加賀丸いもは、粘りけの強さとこくのある味わいが特徴ですが、丸く作るには技術の継承が欠かせません。
「農業とは“いのち”を伝える職業です。これまでは、次世代のために農業の種をまくことを心掛けてきましたが、これからは、その種を育て、実らせていくことを考えたい」
食育活動にも熱心な、岡元さんの授賞式でのスピーチでした。
山守同様、百年先、二百年先にも“まなざし”を注ぐ、頼もしい担い手です。
一人ひとりの選択で
審査委員長の生源寺真一東大農学部長は「日本の農業を支えているのは食卓です。私たちの“食べ方”で農業の未来は決まります。消費者の自然な選択で農業、農村を支えられる社会が、よい社会」と祝辞を述べまし
た。
未来を少し見通して、よりよい選択ができること、それが山守、田守、畑守、そして街守や地球守への入り口です。