ID : 5550
公開日 : 2007年 12月 2日
タイトル
中国の森林政策と雲南の森林の現状(2) 雲南の民族と森林(
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新聞名
JanJan
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元URL.
http://www.news.janjan.jp/culture/0711/0711270342/1.php
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元urltop:
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写真:
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調査地では建国直後から森林破壊始まる
我々が調査した9ヶ村でも、住民の証言によればこの「大躍進」期は森林破壊が最も激しく行なわれた期間である。しかし村によってはそれ以前から既に森林破壊が急速に進行していたことが明らかになった。それは共
産党政権発足直後から始まる都市・道路・軍事基地建設、それに加えて石炭の採掘坑道の建材需要やコークスを焼くための燃料需要による。
写真1.ラドン村。左:ラドン村集落背後の神山。比較的良好な自然林が残っており、水源となる泉も湧いている。幸いこの集落には土壌崩壊はない。右:神山内の泉で水を葉っぱですくって飲む案内の少年。
リンツァン県のラドン村では1952年に県庁所在地からの道路が通じ、国営企業が村内で炭鉱開発を開始した。またその道路を通じて木材が大量に運び出されたのである。この村の周辺の森には建国以前には象や虎
、豹さえ出没したそうであるが、今ではそうした大型動物は姿を消し、水源からの水量は減少し、気温の上昇を住民は感じている。
写真2.ラドンからリンツァンへ戻る途中の道路周辺の景色(写真4および写真5も)。左:急斜面に段々畑がびっしり作られている。トウモロコシの収穫後の枯れた茎がそのままになっている。右:モンワン大寨から流れ
てくる河。茶色くにごっている。
その村から数km奥に入ったモンワン大寨でも同様な証言が得られた。この村には1957年に200人の軍隊と労役のための囚人が村内に住み込み伐採作業を行なった。この際には伝統的に禁伐の森とされていた聖な
る森林内の樹木も伐採され、60、70年代に地すべり・洪水と旱魃・気温上昇が最も激しかった。
写真3.モンワン大寨(写真6および写真7も)。左:モンワン大寨の土壌崩壊現場。手前の斜面が大きくがえぐられている。中:えぐられた谷にかかる橋。常に土砂が崩れるので、橋は毎年架け替えなければならない。右
:橋の向うの畑に作業に行く村人。
この村は我々が調査した中では森林破壊の影響が最も強く出ているところである。谷のどん詰まりに位置するこの村は背後の山へと続く斜面上にあり、山に降った雨水が集中する。集落の一角、仏教寺院のすぐ裏側が
大きくえぐれている。頻繁に崩落を繰り返していると見え、土が生々しくむき出しになっている。その向うには、裏庭の一部が既に崩落した家が建っており、退避勧告が出されている。すでに移転した家も数多くあるそうだ
。
この村からラドン村を通って流れる河の茶色ににごった流れは、しばらく南下すると西からの清流と合流する。その合流点では両河の水が交じり合わずにしばらく流れていく。山地帯を抜けて県庁所在地である風翔鎮の
ある平野に出るとすぐに、その川の右岸にはセメント製の薄い壁、いわゆる「かみそり堤防」が築かれている。突発的増水と流出土砂の多さが想像される光景だ。
激しく追及された食糧増産
さらに建国直後から一貫して森林を痛めつけてきたのは、政府による食糧増産指令(米・豆類・イモ類)である。われわれの調査した村々でも、この食糧増産のための耕地開発が森林破壊を最も進めた原因としている
ところが大半である。やはり水源林や埋葬地のある聖なる森林にも手をつけ、早くて60年代初め、遅くても70年代半ばには周辺の山々がほぼ禿山になったところが多い。そして暴風雨や洪水・旱魃などの災害を経験し
ている。
食糧増産に共産党指導部が乗り出したのは、当時飢餓線上にあった多くの人民の命を救うためだけではない。確かに過重な年貢にあえいでいた中原を中心とする平地農民の広範な支持を受けて革命を成功させた共
産党は、政権樹立後まず食糧不足を解決するという一大課題を背負っていた。しかしそれだけにとどまらず、党指導部は農業分野からの搾取によって急速な工業化を推進して国家建設を行い、そして資本主義国はもと
より旧ソ連を含む世界の強国に対抗する意図をもっていた。
土地改革(農民が土地の所有者になった)を完成させた直後の1953年末から、農産物の強制供出が始まる。また当時の国際情勢への判断から、その工業化は強力な軍事化を含んでいたし、さらに農業分野への資本
投入はごく限られていた。そうした条件の下での食糧増産は単収の増加を目指すのではなく、勢い人海戦術に頼った耕地の量的拡大という方向に走ったのである。
「大躍進」政策が始まる1958年には「向山区要糧」指令が、また「大躍進」政策が撤回された61年には「以糧為綱」政策が実行される。「向山区要糧」とは文字通り訳せば、“山地に対して食糧を要求する”であり、「以糧
為綱」とは“食糧を以って(国家建設の)命綱とする”の意である。これは「上 (糸偏に激の造り)公糧(きちんと食糧を供出しよう) 」というスローガンと抱き合わせになっている。
雲南省の最南部に位置する西双版納ダイ族自治州では1958年から62年のわずか4年間で、森林を伐採し耕地にした面積が4万ha以上に達した。この面積は1995年当時の総耕地面積の約4割に当たる。平地に対し
ても耕地の拡大は要求されたものの1人当たり0.33haであったのに対し、山地の住民にはそれより広い1人当たり0.4haの新規開拓が強制されたのであった。
参考文献
天児慧 『中華人民共和国史』 岩波新書 1999年
矢吹晋 『文化大革命』 講談社現代新書 1989年
中嶋嶺雄 『中国現代史(新版)』 有斐閣選書 1996年