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彗星夢雑誌/古文書

幕末の政治・情報・文化の関係について

前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。


 ただし、私が今言ったのは、幕府のノーマルな政治システムにおける情報収集なのです。私達がもっと大事な問題として考えなければならないのは、むしろ江戸時代には、一見関係ないような制度のもとで、情報というものが幕府に集中するように造られていたのではないか、という社会制度の問題なのです。今言ったのは、将軍なり老中が意思を発動し、そして自分達の役職の者を動かすやり方です。それだけで情報が集まったのでは決してないし、それ以外の枠組みをも周到に幕府は造り上げていたのではないか。私は史料を見ている間でどうもおかしいのではないか、と感じることが多いので、推測も交えてその幾つかをお話してみたいのです。
 一つは、政治史では殆ど出てこない鷹狩です。何故かと言いますと、御鷹場というのは江戸町の外がわの多くが御鷹場なのです。江戸の町を出ると、かなりの周辺部分が御鷹場に据えられ、そしてその鷹場村々というのは鳥見役が常時巡回している場所なのです。鳥見役というのは、百姓が鳥を獲っているかどうかを監視するだけではなく、例えば村芝居の興行まですべて鳥見役人に届けなくてはならない体制になっている。幕府の鷹狩なり鷹匠システムは、一面では関東週辺の農村部分、いわば街道沿いではない農村部分の情報収集のシステムだったのではないか、という気がしています。若干関係する史料を見てみますと、南部藩ではこれは事実なのです。ペリーが来航したのは嘉永6年6月ですが、その同じ月に南部藩では三浦命助を中心とする有名な三閉伊大一揆が起きます。そして、南部藩の農民は大挙仙台領に南下するわけです。この仙台領に南下する農民の行動を報告していたのは、南部藩における鳥見役人でした。鳥見役人の報告を引用してみますと、「(農民が何百人か何々)ト申ス間道カラ仙台領エ抜通リ候旨、安俵通り御鳥見カラ御用状を以申来之」とあります。鳥見役人から盛岡の藩庁に正式の公用文で来るわけです。これは一つだけではありません。繰り返し、いわば仙台領との境目に置かれている南部藩の鳥見から来るわけです。

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