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彗星夢雑誌/古文書

幕末の政治・情報・文化の関係について

前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。


では、江戸町の外の関東諸国はどうなるかというと、これは勘定奉行支配下の関東取締出役が始終組合村を巡回して情報を集めます。この情報も老中に上がります。江戸時代の情報体制としては、あと一つ勘定奉行の下に普請役というものがございます。これは間宮林蔵が普請役になって密貿易その他を調べたという話がありますが、私は今の処幕末に関しては、普請役の報告書は見てはいません。ですから幕末期でのその機能はよくわかりませんが、制度的には普請役から勘定奉行の線もありうるのです。これが幕府の情報システムですが、ただ注意しなければならないのは、江戸幕府は一面では、老中と将軍、或いは譜代と将軍との結合関係が非常に強いのですが、一面では将軍制度というのは専制君主制ですから、デスポティックな要素が濃厚にあるわけです。老中にも関係なく将軍個人が情報を集めるという専制君主の本質は、徳川将軍家も同じ様に持っていました。御存じのように、御庭番という制度が、これも江戸時代初頭から幕末まで厳然として機能し、その史料も豊富にあるわけです。一番見易いものとしては、新潟市郷土資料館に川村清兵衛文書がございます。川村清兵衛というのは初代の新潟奉行ですが、川村家は御庭番の家です。この史料の中に、御庭番と将軍との関係が分かる史料がかなり残されています。ここで若干紹介致しますと、御庭番の頭が、嘉永7年閏7月ですからペリーが来航した翌年の閏7月、西暦で1854年の事ですが、すこし文章を読んでみますと、「今日、本郷丹後守殿」-本郷丹後守というのは、側衆ですから、将軍の側近であり、老中との関係がありません-「久太郎エ御逢有之、去四月六日京都御所炎上并六月中上方筋地震ニ付、所々破損潰屋荒地抔有之候ニ付、御庭番両人彼地エ被差遣候間、川村清兵衛・明楽八郎右衛門両人被差遣置候様仕度旨直応申上置候旨、久太郎カラ八郎右衛門方エ内情に申越」とあります。つまり側衆から将軍の命を受け御庭番の筆頭が京都に派遣される川村清兵衛と明楽八郎右衛門に手紙で申し送ったということです。ところで御庭番の場合、道中証文はどこが出すか。これは、側衆が出します。老中とか若年寄には関係なく、嘉永7年8月付けの側衆4人の連名の道中証文が出されています。また御庭番というものは一人では行きません。必ず二人で行きます。京都御所炎上とか地震という問題は、御庭番が動く一つの条件です。それ以上に動く条件というのは、やはり政治的に将軍が非常に不安と持った。そういうときに動かざるを得ない。不安を持ったとき、幾つかありますが、一つはやはり桜田門外事件の後の諸大名の動きです。諸大名はどう動くのか。桜田門外の時には、家茂という若い将軍になっていましたが、この時も御庭番が動くのです。川村文書によりますと万延元年7月とありますが、桜田問題の変の同じ年に、側衆が御庭番の頭を呼び出して次のように命じるのです。「遠国御用被仰付、薩州表エ被差遣候、右御用柄ハ松平修理大夫、当四月可致参府と途中迄罷在候處、当三月三日之一情致承知、国許エ引返シ病気申立、出府不致候、右等ノ廉之様子承糺候事」というのが、この御庭番に側衆が命じた命令の内容です。実際に御庭番というのはこのような形で、政治的に問題がありそうなところでは、老中を介さずに将軍が直接命令できる体制が整っていました。従って、この御庭番の報告は井伊家の資料にはありません。川村文書を見ますと、天明7(1787)年から天保12(1841)年の間に御庭番が出張した回数と行き先が書いてある史料があるのですが、この間34回、そしてその行き先を見ますと、やはり必要なところにはすべて行っています。大塩の乱が起こると、直後に二人の御庭番が大坂に派遣されています。こういう形で情報が動き、集積されていくわけです。

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