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彗星夢雑誌/古文書

幕末紀州の知識人 羽山維碩(大学)

風説留 *1 『彗星夢雑誌』百十五冊記す

和歌山文化協会郷土研究部部長 小弓場弘文

  最後に紀州が生んだ巨人、南方熊楠と『彗星夢雑誌』、羽山一族のことについて、『南方熊楠全集』から拾ってみる。
熊楠は「小生と羽山とは会縁(註・縁者)であり医家である。羽山大岳は明治十一年ごろ七十五、六で死亡、ことのほか筆達者な人で、『彗星夢雑誌』七十冊ばかり、その他書き集めたるもの多し、ペリル(ペリー)が来た前年に彗星が現われ世間が騒ぎだしたのをきっかけに、見聞したことを何くれと書き付けて、明治二年箱館(函館)の一件で平治して、新聞のごときものを多少東京で発行されるに及んで筆を措きたるものである。」と記し、続いて
「『彗星夢雑誌』は、小生ことごとくこれを写しあり、機会を得て出版せんと思えど、ことのほか大部なるものゆえ、すでに世に知れ渡りたることなど除き、未知のことの条のみを抄出して近く出版せんと思う」と述べている。そして、「そのころ菊池渓琴とて有田郡栖原に大いなる商家あり、北海道及び東京に出店ありて毎月何回と定まりて飛脚来たり、諸方の異事を告げ来たりしを、渓琴より瀬見善水と申す日高郡江川村の代官へまわし、それよりこの羽山へ廻せしをことごとく控え置きたるなり。」と述べている。
又、羽山とその一族については「大岳に実子なく嗣子は夫妻とも親族より養いとりしなり。この嗣子、羽山直記、只今あらば八十六才なるべし。はなはだよき人であった」と記し、この人は近郷の名医であったことの他にエピソードを挙げほめている。
そしてこの嗣子直記に男六人と女二人があり、男六人中五人は何れも優秀で東京大学や医学専門学校で医学を学んだが、四男のみを残し、次々と肺結核で何れも死亡している。
これを悼み羽山家の墓地に大正9年(1920年)七月建立の、仏教大学(現龍谷大学)学長薗田宗恵の碑文による墓碑が建っている。
兄弟が次々と将棋倒しのように死亡することから四男芳樹は気に病み、京都で治療後全快し羽山家を継いで家伝の売薬で身代つくったと記している。四男の死亡後、羽山家は断絶している。
次男の藩次郎は、東大の医学部で諸科目百点て特待生であったと熊楠は激賞している。女二人については、美人で学芸を身につけさせ、長女・信恵は塩谷の山田家という大地主の豪農に嫁いでいる。この山田家は、江戸時代郷士でありまた漁夫数百人を支配する大家であったという。この山田家には、今も数百人の飯を炊く大きな台所があったと記している。次女・季*2はこれ又、御坊の木材商*2の中川家に嫁いでいる。
熊楠は、四十五年ぶりに羽山家を訪れて、その庭内で四男芳樹をはじめ、山田家の人々とその縁者と合わせて十六人で写真を撮っている。この写真は『大阪朝日』に載せられているとのことである。
以上熊楠は、羽山家とその一族についてこまごまと記している。また、同家の人々も熊楠を頼りにしていた様で、残されている熊楠の手紙等から察せられる。
『熊楠全集』の記事の中で興味深いのは、大学の孫が五人とも次々若死にしたのは、羽山家の井戸に関係あるのではないかと言っているところである。
「小生羽山の旧宅をみるに、井戸を全く壁をもって取り囲みあり、塵が入らぬよう防ぐと見え候、しかるにこれでは日光と風が少しもとどかず、さて兄弟六人のうち長兄がどこかから肺患をうけて来たり、結核菌が井戸に入りて日光と風が少しもとどかず、増殖間絶なく、おいおい四人に及び、父母は老令にて脱患し娘二人は、なにか男兄弟と素質異なるにより少しも菌に侵されずに通せしことと判ずるの外なし」と述べ、さすがに粘菌学者らしい観察をしているのが興味深い。

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