葉っぱの精神
葉っぱとの出会いは、私がまだ美大の学生だった頃に遡る。
「この世の中で一番美しいものをつくあげよう」。三ヶ月制作に没頭し、
その通りの作品をつくりあげた。
それは、無数の極彩色の目が全身にはりついたケロイド状の
巨大な人型オブシェだったのだけれど---。
学園祭で発表し会期中も見事な作品の出来に、心踊る思いでウキウキしていた。
思わぬ出来事はその直後に起きた。
展示を終え、下宿先の軒下に『世界で一番美しいもの 』を保管していた。
ニ、三日後、大家さんと管理人のおばさんが血相変えて訪れた。
「裏の家の子供が、あの作品を見て怖がって泣いているから、何とかして欲しい」
コワガッテ、ナイテイル? この言葉の意味が始めは理解できなかった。
この世の中で一番美しいものを見て、どうして怖がって泣くのだろう ?---
この疑問は四六時中つきまとい、そのうち何もつくれなくなってしまった。
あの作品に対する友人たちの感想も、ひとり賛辞の言葉と受け取っていただけで、
実はみんな、怖がり気持ち悪がっていた---
この世間と自分の間にある大きな感覚のズレ。それが毎日、私を苦しめた。
自分自身の感覚がまったく信じられなくなってしまったのだ。
大学の長い春休み。毎日、自問自答を繰り返す生活。
こんなことじゃいけないと、奮起してジョギングを開始した。こんがらがった頭で走る。
いくら走っても、頭の中はすっきりしない。---
四ヶ月経った。春の気配を感じさせる日。
頭の重みで倒れそうになりながらも、ジョギングを続けていた。
橋のたもとの、木々が林立した静かな広い通り。ぜいぜいしながらこの通りまで来た時、
立ち止まりふと見上げたその先に---
救世主はいた。瑞々しい葉っぱが、優しい春の日差しに透け、
みなぎる生命力で光輝いていた。
「美しい」。4ヶ月ぶりに心にすーっと入り込んできた感覚。
頭の中でもつれていた糸が一瞬のうちにほどけた。この美しさを
伝えたい――。この出会いをきっかけに、葉っぱをテーマとした
作品を作り始めた。でも作れば作るほど、あの新緑の輝きからは
遠のいて行くような気がした。葉っぱの門口に立たされ、門前払
いを食わされ続け8年経ったある日。ふと考えた――葉っぱと出
会い、試行錯誤を繰り返すうち、私の中で明確になった言葉があ
る。『葉っぱの精神――この世の中のひとつひとつのものはすべて
同じ価値があり光り輝く存在である』
この言葉にのっとって、1枚の葉っぱをありのままに描いてみた
らどうだろう。恐る恐るとではあるが、ありのままの自分で、あり
のままの葉っぱを1枚描いてみた――。なんだこんな簡単なことだ
ったのか。ただありのままに描けばよかったんだ。自分はアーティ
ストなんだという気持ちで取り組んでいる間は、かたくなに閉ざされ
一歩も中に入れてくれなかった葉っぱの門が、この時少し開かれた。
そのすき間から中へ入ってゆくと、葉っぱはやっと来たねという感じ
で私の手をひき、確かな世界を少しずつ見せてくれた。まず、胸を打
たれたのは、ひたすら前向きな葉っぱの姿勢。へこたれず、めげもせ
ずスクスク生長してゆく様は、応援歌のように心に響いた。――なん
だ、そんなことはたいしたことじゃない。問題ないよ、問題なし。前
進あるのみ。何でもやってみなきゃ、わからない。やってみなきゃ、
何も変わらない。
そして、葉っぱは手厳しい絵画の先生にも姿を変えた。ナガイモ先生
の授業は好きだった。つやっぽい緑に葉脈間がくっきりふくらんで、鮮
やかなマゼンダレッドの線が小気味よくてイカしていた。ケヤキ先生、
サクラ先生、ヒノキ先生たちは、難問を容赦なく投げかけてきた。キミ
はどこまでこの葉脈の神秘・葉の構造に近づけるかな?紅葉したケヤキ
先生は極めつけだった。細脈が見てとれず、さあ、どうやって描く?と
厳しく仕掛けてきた――こうして6年くらい経ったある日、奇妙な感覚
を感じた。今まで見えなかったものが見えてきた。細脈のすみずみまで、
語りかけてくるように見えてきた。描き進んでゆくうちに、その葉っぱ
の持つ魅力が見えてきてどんどん虜にされてしまう。虫食い跡や傷跡や
病気の葉っぱは神さまが与えた美しい勲章のように、鐃舌に語りかけて
くる――。
小さな1枚の葉っぱ、たかが葉っぱなのに実に奥深い世界が広がって
いる。そして、私たち人間が忘れ去ってはいけない大切なことが、1枚
1枚に克明に刻みこまれている。葉っぱは、思い出してよ、忘れちゃだめ
だよ、と今日も私の手をひく。
このほか 下記のエッセイが本には書かれています。
● エビヅルのくわだて
● 旅と木の葉
● 木の葉の下で
● 裏庭のマザー・テレサ